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2010年1月12日掲載

西田敬一さん 『果てしなきサーカスの旅』(現代書館)

アングラ演劇からサーカスの世界へ。西田敬一さんは、艱難辛苦の末、群馬の山あいにサーカス村とサーカス学校を設立するが、物語はそこで終わらない。政治の季節“60年代”をくぐり抜けた反骨魂の息づき。
その見果てぬ夢とは・・・。

人間という生きものは、なにがきっかけとなって、ひとつの世界にのめり込んでいくのかわからないものだ。気がついたら、一人その道の先頭を歩いている。自分以外にだれもその道を切り拓いてくれるものはいない。なにかに魅せられる、ということは、そこから喜びや至福感を得ることができるということだ。その代償として、ときに人は人生のかぎられた時間や労力、また金銭をとことん費やさなければならないこともある。
「茨の道」あるいは「重荷を負うて遠き道を行くが如し」。西田敬一さんの『果てしなきサーカスの旅』を読むと、そんな言葉が立ち上がってくる。挫折や失敗、艱難辛苦のエピソードがちりばめられている。しかし、それは決して武勲の古傷、人生の勲章として描かれているわけではない。よくある苦労自慢などではない。それは、自身と志をともにするかもしれない者たちへむけた次なるステップのための冷徹な覚え書きでもあるようだ。なぜならば旅はまだ途上にあり、追いかけるべき夢はさらにふくらみつつあるからだ。

(取材/文 大島憲治)

アングラ演劇からサーカスの世界へ

西田敬一さん「サーカスは子どもの頃にみてはいたんだろうけど、まったく印象にないんだよね」
眼鏡の奥の細い目をさらに細めながら、西田さんは話し出した。三十数年前というからその頃、30歳前後だった西田さんは、たまたま護国神社の境内で興行中の「関根サーカス」を観に行き、そこでサーカスの持つなにかに心をつかまれたらしい。そして、いつのまにか関根サーカスの事務方のような仕事をこなすようになる。
それまでは、アングラ演劇界のドンのひとり、内田栄一氏のもとで芝居の手伝いや台本書きをしたり、『潮流ジャーナル』という『朝日ジャーナル』に対抗する週刊誌の編集アルバイトなどをしていた。また、怪しげな雑誌にエロ小説を書きまくっていた時期もあったそうだ。

そもそもは早稲田大学のドイツ文学科出身で、大学院へ進もうとしたが、よほどアクの強い学生だったのか、あるいはラジカルな活動家だったのか、「あんなアナーキーなやつは入れるな」と、ある教授から猛烈な反対を喰らい、院生への道は閉ざされてしまったという。いまのように従順な学生など皆無に近い、反体制運動が華やかなりし時代のことだ。西田さんもなんらかの政治活動をしていたかもしれないが、そのことは敢えて訊かなかった。いずれにしても、アカデミックな世界とは永遠の別れを告げることになる。

「だれかが勝手にサーカスなんかやろうとしたら、潰されますよ」

サーカス学校西田さんがもぐり込んだサーカスという世界、それは<ショーと生活が渾然一体化した現場>だった。アングラ演劇というそれまで自分が身を置いてきた世界とはまったく異なる現実があった。そして、サーカスで働いている人というのは、芸人やスタッフ、そのだれもが、ほかでは感じられない<強い精気>を発しているという。そのエネルギーをいつでも浴びていたいという一種生理的な欲求が、西田さんをサーカスに取り憑かせたのだ。

いまでこそ、「シルク・ドゥ・ソレイユ」のようなショーアップされたものに人気が集まっているが、サーカスと聞くとなにか暗く、うら悲しいイメージがつきまとう。かつては、子どもを叱るときに、「言うことを聞かない子はサーカスに売っちゃうぞ」などというセリフもあったぐらいだ。なにか一般社会にはない「掟」のようなものがあっても、全然不思議ではない。
この本のなかで<ケツ割り>という隠語がでてくる。サーカス団から逃げ出すことを意味する。辞めるのではなくて、逃げ出さなければならない状況も事実としてあるのがこの世界なのだ。
「だれかが勝手にサーカスなんかやろうとしたら、潰されますよ。」西田さんは、そうきっぱりといった。前近代的、かつ闇のような興行体質がいまだに残っているのだ。

日本のサーカスの絶望的ともいえる現状

西田敬一さん吸い寄せられるようにサーカス団に入ったものの、時を待つことなく、そうした古い体質や体制に疑問を持ちはじめるのは当然の成り行きだった。ましてや、それまでこの国の政治、社会体制に異を唱え活動し、ラジカルなメッセージを放つアングラ劇を創ってきた人である。<ケツ割り>とはならなかったものの、一年足らずで団を出ていくことになる。そしてじつはここからが、西田さんの“果てしなきサーカスの旅”のはじまりとなる。時代は1975年。その頃からサーカスは、<将来性のない大衆文化のひとつに数えられていた>という。あれから30年以上経っているが―。

「日本のサーカスは消滅しているといっても過言じゃないね。出演アーティストのほとんどは海外に頼っているんだから」
西田さんの口からは、日本のサーカスの絶望的ともいえる現状が吐露される。

家電メーカーのPR誌を編集する仕事に就きながら、日本のサーカスをなんとかしたいという思いを募らせる。そして、1978年に「サーカス館実現準備委員会」という組織が結成される。資料館、学校、常設劇場の設立をめざすサーカスファンによる会員組織だった。そのあと様々な動きがあるが、10年後の1989年、今度は「国際サーカス村構想」を西田さんはぶちあげる。ちょうどバブル期で日本中が投資や投機に夢中になり、リゾート開発やテーマパーク開発に沸き立っていた時期だ。企業とのタイアップも実現しそうな流れだったが、お互いの思惑は相容れない。
それはそうだ。西田さんはサーカス文化を守り、育成していくのが狙いである。営利目的、収益優先の企業サイドとはジョイントできるはずがない。資料館、学校、劇場のほか、宿泊施設、ギャラリー、工房、動物調教などを配する壮大なる「国際サーカス村構想」は、バブルの波に乗ることはなかった。もちろんそれは、廃墟となったテーマパークが現在あちこちに点在するという事態をみれば、幸運なことだった。