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言葉の風
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どう猛、かつ欲情的であるということ―クラシックの舞台空間

こんなにも胸をワクワクさせて上映を待つ映画などあっただろうか。
どんな名監督が撮った作品でも失敗や駄作はつきもの。
見終わってみなければわからない。だから上映前は、
ワクワクというよりも厳格を心がける審査員のような神妙な面持ちになる。
これからはじまる映画のストーリーは、なじみ深いものだ。
台詞もないし、役者も出ない。それは楽曲で綴られたものだ。
しかも、何度でもその音の奏でる物語に浸りたいと思う名曲ぞろい。
世界一流の指揮者と管弦楽団によるライブ収録。
当然のことながら厳選された演奏であろう。
クラシックレコードの制作では、ときに楽章のなかでも
音の切り貼りをするケースもあると聞く。
録り直しをしている時間がないというのがその理由だ。
パッケージは、完璧でなくてはならない。
これはどんな業界でも不文律のようなもの。
そういう意味で、生演奏会は"完璧の壁"をいかに越えらえるかというのも、
聞きどころ、見せどころのひとつでもある。
シネ響『マエストロ6(シックス)』第1弾は、サイモン・ラトル指揮、
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。
第2弾以降は、癌疾患から復帰したアバド、リッカルド・ムーティ、
バレンボイム、現在80歳のマゼール、
南米はアフロヘアの俊英、グスターボ・ドゥダメルと続く。
世界のマエストロ6人が指揮台に立つ。
ラトルとベルリンフィルが演じたのは、ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番』と
チャイコフスキー『くるみ割り人形』。
2009年12月31日、フィルハーモニー(ベルリン)で収録されたものだ。
なんとなく憂うつな日曜の夜、N響アワーを鑑賞しながらぼんやりとすることがある。
楽団員のモノトーンの風景をながめ、ボリュームを絞って耳を傾けていると、
だんだんと暗い気持ちもやわらいでくる。この映画は違った。
その迫力たるや、子どもの頃、スクリーン狭しと格闘する
『ガメラ対ギャオス』に息を呑んだ衝撃を思い出させた。
正直、「臨場感あふれる」5.1サラウンドには、あまり感動を受けなかった。
クラシックは、やはり生の音にかぎる。それよりも映像だ。
顔が、手が、指がスクリーンいっぱいにひろがる。
その巨大化された世界が、『ガメラ対ギャオス』の映像を
記憶から立ち上げたのだろう。
頬の紅潮が、チェロの木目が、鮮明に映し出される。
文字通り「滝のような汗」が、指揮者ラトルの額から流れる。
中国人の人気ピアニスト、ラン・ランにぴったり張りついたカメラが
アジアの容貌に表れる歓喜の起伏をまざまざと映し出す。
映画がはじまり、しばらくするとパニックに襲われそうになった。
現実感があやしくなってきたのだった。
これだけ人間が繰り返し、繰り返しクローズアップされる映画は初めての体験だ。
大型スクリーンに映し出されていく音楽家たちの巨大な表情と動き。
熱にうなされて見た悪夢・・・
無限に大きな炎の一端が目の前に現れたような錯覚にとらわれる。
映像のなかにあるのは、芝居を演じている役者ではない。演奏をしている人たちだ。
譜面がシナリオではないように、これは虚構ではない。しかし、現実でもない。
押しよせる美しい旋律が、やがてパニックを鎮めていった。
『ピアノ協奏曲第2番』といえば、ラフマニノフの代表的な作品だ。
ロシア的空間とでもいうのだろうか、CDを聴くときには、
あの宇宙的な哀感と牧歌が織りなす楽曲に目を閉じる。
すると、きまって地平線のかなたまでつづく雪の平原があらわれる。
目を開けているときでも果てしなく白い原野が浮かんでくる。
映画は、瞬きもさせずに指揮者と演奏者をみつめせてくれた。
地平線のかなたもあらわれなかった。
果てしない白い原野も浮かんではこなかった。
これは貴重な経験だった。
人間が生みだすクリエイティビティのなかで、最高峰にあるのは音楽ではないだろうか。
そんなことをときに思ったりする。
その人間がこんなにも顕(あら)わとなって、生みだされた音楽と"競演"を演じている。
なんとも奇妙な表現となってしまった。
音楽の源泉は、人間世界ではないところにある。どこか遠いところにある。
でなければ、あの深い憧憬や遠望感を起こさせるはずがない。
映画では、ラフマニノフが終わって、アンコールにラン・ランがショパンを独奏した。
2曲目が『くるみ割り人形』。
ベルリンフィルが心から楽しんで演奏しているのがよく伝わってくる。
ミキシングにより、前曲のピアノ協奏曲では低音部がかなり抑えられていた。
しかし、『くるみ割り人形』のオーディオ・ビジュアルは、
ティンパニーの響きも豪快で、ハープやチェレスタ(「金平糖の踊り」で
印象的に使われる鍵盤楽器)という繊細な音色にも映像が密着、
見応えと、聴き応えのあるすばらしいものに仕上がっている。
クラシックの最大の魅力は、まずアンプラグドな音色にある。
暖かさ、強かさ、繊細さ、透明感、重厚感が、
人と楽器だけの力でオーガニックに生みだされていく。そして、アンサンブル。
ときに100人を超える演奏者たちが集まり、ひとつの楽曲を結実させるという一体感。
平和で友愛に満ちている。
しかし、今回この「シネ響」を観て、はじめて感じることがあった。
指揮者とオーケストラは、どう猛、かつ欲情的であるということを。
これでもか、これでもかとサー・サイモン・ラトルは、
ウェーブのかかった金髪を振り乱す。
こめかみに静脈を浮き上がらせたオーボエ奏者、
一心に一点をみつめるバイオリニスト、
バラ色の顔をさらに赤らめる演奏家たち。
クライマックスに向かう指揮者とオーケストラの光景が、
さまざまな角度から捉えられ、めくるめく切り替わっていく。
舞台にいる者たち全員ががめざしているのは、音符が尽きはてる空間。
そして、音楽の"精"が強く発光するように放たれ、
歓喜、満足、幸福がつらなる波となって押し寄せてくる。
Orgasm・・・。
やがて、潮が引くようにすべての交響がふたたび宇宙へと帰って行く。
舞台空間にともに在らねばわからないことが、スクリーンを前に体感できた。

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