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言葉の風(編集長ブログ)

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『貝の子プチキュー』

死んだようにかたく口を閉ざしていたやつが、
いつの間にか水のなかで白いやわらかなベロを出している。
ベロは足である。
水面にツノのように突き出た出水管から水が吹き上げられ、
銀色のシンクに細かな水しぶきがキラキラと散っている。
おっ、生きてる、生きてる。安心する。
シジミやアサリの砂抜きをしているときの話だ。
この小さな貝たちぐらいではないだろうか、
かわいいと思うのと同時に食べたいという気にさせる生きものは。
茨木のり子さんが書いた唯一の絵本『貝の子プチキュー』。
主人公プチキューは、アサリよりもちっちゃな貝のようだ。
物語の舞台はもちろん海だ。
しかし、プチキューという語音には、なにか台所の匂いがする。
ぷりぷりとした貝をかみ砕いたときの食感さえ伝わってくる。
―どっどど どどうど どどうど どどう
 あおいくるみを吹き飛ばせ・・・
ご存じ宮沢賢治『風の又三郎』の一節だ。
オノマトペの極北というと、仰々しいかもしれないが、
この、どっどど どどうど どどうど どどう は、
風の音さえも呑み込んでやってくる風の全姿をとらえた擬音なのか。
風の姿などだれも見ることできないが、
本物の詩人であれば、そう難しくはないかもしれない。
詩人というのは森羅万象を言葉に置き換えたくなる生きものだ。
音を発生させ、文字の象(かたど)りを援用し、比喩を使い、
ときに意味をころし、リズムをとり、霊感を降らせ、
およそありとあらゆる手を打ちながら、
いままで聞いたこともない一節、一句で世界を変えてしまおうとする。
置き換えるとは変わってしまうことだ。
茨木のり子さんも一流の詩人であり、オノマトペに秀でている。
ダボデン ダボデン これはなんの音だろう。
海の波の音らしい。波は退屈しているのだ。
モカモカ これはなんだ?
カニの子が怒って泡を出しているのだ。
トキトキの とがった やつってどんなやつだろう。
海に落ちてくるガラスのかけらだ。 
バカヤロ、そんな言葉も発せられるが、
これなども意味の殻から飛びだした、なにかの擬音に聞こえてくる。
オノマトペの使用はこの絵本ではそれぐらい。
これが過ぎればうるさいし、愚かしい文となる。
いい詩といい絵本に共通するところは、
読み終えた直後、めまいに襲われることだ。
ミルクティを一杯飲み終えるほどの短い時間で、
予想できない世界が現れ、消えていく。
荒唐無稽さもいいが、それだけではダメ。
生きとし生けるものを貫く、かなしみやよろこびが
歌になっていなければ、こころの足元もグラグラとはしない。
不安定になるのはもちろん現実のほうだ。
この絵本は歌をうたっている。

貝の子プチキュー 』茨城のり子 作  山内ふじ江 絵  (2006年、福音館書店)

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スピリットレシピ

食べることに執心する人を少なからず軽蔑していた。
ずっとむかしのこと、若い頃の話だ。
人はパンのみに生きるにあらず―
そんな求道的なところがあったかもしれない。
どこそこのなにが美味かった、不味かったという会話を
はたで聞いていると、話が熱を帯びれば帯びるだけ、
その人たちがどんどん下に落ちていくように思えた。
食べものの話に熱中する人たちは、自分よりもみな年上だった。
あれから随分と年月が経った。
なにかのきっかけで食べものの話がはじまったならば、
話は尽きることなくつづけられるだろう。
食べることにこだわりを持たないほうが、
今は理解しがたいのだ。
食べることは大切だ。食べられるということはありがたい。
食べないと、まず身体が動かなくなる。
ガス欠のクルマのように。電池切れのシェーバーのように。
悲しいかな、歳とともにそのことをはっきり自覚するようになった。
この夏はとくにそうだった。だから炎暑が終わらない今も
驚くほどご飯をおかわりし、肉を毎日のように食している。
たまに家族のために料理することがある。ふるうほどの腕はない。
ネットでレシピを拾い、プリントアウトしてそれに従うだけだ。
上手ではないが、一生懸命つくる。
先日は、チキンのグリル焼きを作った。じつにシンプルな料理だ。
どちらかというと素材の味を引き出す料理が好きだ。
だから肉は、信頼する精肉屋で調達する。
魚でも肉でも生のものに手を触れるときは、
なにか覚悟のようなものがいる。
なにせ「死体」に触れるのだから、おっかなびっくりだ。
まな板でトリのもも肉を広げ、筋や肉厚のあたりに切り込みをいれる。
このときはまだ自分と肉とのあいだに距離感がある。
冷ややかなものがある。
もも肉を酒にからめてしばらくおき、
それからキッチンペーパーできれいに水気をふき取る。
このあたりから肉とグッと距離が縮まる。
塩をふると、まな板の上でもも肉がパァーと輝いてくる。
あとはグリルのなかに入れてじっくりと焼きあげるだけだ。
グリルをから焼きにする。網に油をぬり、
寝かしつけるようにゆっくりと横たえていく。
トリ肉に愛情が湧いてくる。
煤けたガラスの小窓を何度も何度ものぞきみる。
きつね色に変わっていく肉の表面。
のぞけば、のぞくほど、
肉は美味しくなっていくようだ。
ジュワーっと肉汁があふれ、炎がはぜる。
わくわくしてくる。
料理時間はぜんぶで30分程度だろうか、その間、
サラダをこしらえながらも、
ひたすらメインディッシュであるチキングリルに思いを馳せる。
この集中が途切れたり、邪魔されたりしなければ、
とびきり美味しいチキングリルができあがる。
そして、食べる時間こそ散漫になってはいけない。
食べることに集中したい。
われわれが食べるものはすべて生きものだ。
いただいた命にいちいち感謝して食べることはできないにしても、
不作法に食べたくはない。
少なくともテレビぐらい消して食卓につきたい。
― よくかみしめ、食べたものがすべて自分のエネルギーになると思いながら
食べるといい― あるヨガの達人が語っていたが、
ときどき思い出したように実践している。
食事が、楽しい以上のものになる。

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マーガレット・ワイズ・ブラウン『おへやのなかのおとの ほん』

"夜のしじま"というものは、
ほんとうにあったのだろうか。
はるかむかしのことで、もうその音がほとんど思い出せない。
でも、間違いなく、夜のしじまは、夢のなかへ入る前、
枕元までやってきた。
子どもの頃、寝床にもぐりこみ、電気が消されると
いろんな音が聞こえてきた。
廊下のむこうの部屋からもれてくる、バタン、バタンという
クルマのドアが閉められる音。サスペンスドラマが流れているのだ。
湯飲み茶碗がことっ、とテーブルにおかれる音。
ひそひそとした話、笑い声。
パトカーのもの悲しいサイレン。
あっちこっちで放たれる犬の遠吠え。
近くだけでなく、しーんとした頭のなかには、
遠くから、ちいさい音もやってくる。
何キロも離れた田園を走り抜ける夜汽車、そして、
あの夜のしじまもやってくる。
M・W・ブラウン『おへやのなかのおとの ほん』では、
風邪をひいた子犬マフィンが、ねぐらでからだをまるめ
両目を閉じ、じっと耳をそばだてる。
そこへやってくる音―
たまごをかきまぜる音。床に落ちた針の音。スズメバチの羽音。
家族のみんながセロリやカスタードクリームを食べる音。
暗くなった町に灯りがつぎつぎに点いていく音。
聞こえる音も聞こえなかった音も、
この絵本のなかには登場する。
「音」が主役のようにもみえるが、
ほんとうの主役は、この本を手に取った人の記憶のなかだ。
子どもの頃、熱を出しつらく退屈なふとんのなかで、
"澄ます"ことができたのは聴覚だけだった。
ときに高熱にうなされ、まぼろしが炎の色と音をまとって踊った。
枕元にそっとだれかがやってくる。
声もかけず、音を立てないように、注意を払って。
このそっとやってくる、かすかな空気のうごきは、
無上の安らぎだった。
これは、だれもが体験する、そして記憶しつづける大切な音だ。
タオルをしぼる音も、床(とこ)を直す衣擦れのような音も。
この絵本のなかでも、無上の安らぎをもたらすものがやってくる。
臥せるマフィンのいる場所へ、
そのようすを見に、そっと階段をあがって。
それは作者ブラウン自身をも癒し、なぐさめてくれるものだ。
さて、それは・・・。
考えられないような赤の色づかいはお見事。
レナード・ワイズガードの絵も楽しい。

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