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言葉の風(編集長ブログ)


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SENDAI 七夕まつり

34年ぶりにふるさと仙台の七夕まつりへ。
ただただ人の波にゆられ、ゆられて吹き流しのなかをくぐる。
変わらないなあ・・・。
この単調さに何年も訪れることはなかった。
今年で100周年を迎えたという仙台の七夕。
歴史の浅ささもそうだが、
発祥はいわば商店街の販売促進。
物語がない。神もいない。伝説・伝承もない。
もちろん七夕には東アジアの神話があるかもしれないが、
いまあるのは、「願い事」という現世御利益、そして、
「七夕」というロマンチックな名称(=ブランド)だけ。
それでも、どこまでも続く竹飾りに子どもは大喜び。
手に届きそうで、届かない吹き流しにジャンプしたり、
大きなくす玉に口をあんぐり。
さて、行けども、行けども視界をさえぎる七夕飾り。
それが妙に幻想的になってくる。
ここはモロッコ? ラビリンス?
いやいや、、どこまでも真っ直ぐなメインストリート。
この日は最高気温34度という酷暑で、アーケードの中にこもった
人いきれと熱気に朦朧(もうろう)としないではいられない。
嫌気と弛緩がとけ合った前進は、まるで迷路だ。
苦痛と快楽がゆっくりと回転する。
風車のように歩く。
長い長い「中央通り」が終わり、「一番町通り」とぶつかる。
街の中心。人の流れは一端ここで破綻する。
台風の目のような地点。
ここを動けば、南も北も東もかまびすしい。
西へむかう通りだけが閑散としている。
通りのはるか向こうには、
黒く輝く青葉山の森がみえる。
ふるさとの真夏にはっとする。

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象を倒し食べる人たち

横たわったゾウに人々が群がっている。
空き缶でつくったナイフ、そして素手によって皮をはがされた真っ赤な巨体。
血の山に押し寄せた人たちは、我先にとその肉を引き裂き、引きちぎる。
なかには待ちきれなくて、そのまま生の肉片を口に放り込む者もいる。
アフリカ・ジンバブエで撮影された一コマだ。
つぎの写真では、ゾウはがらんどうの骨と化している。
解体されてから2時間後の姿だという。
つぎの写真では、骨一つ残っていないまっさらな地面。
翌日にはきれいさっぱりなにもない。
すべて飢えた村人に食べ尽くされてしまったのだ。
東京都写真美術館で『2010世界報道写真展』をみてきた。
目を覆いたくなる悲惨な映像が少なくない。
イスラエルの報復攻撃により、
地面に頭だけ出して息絶えたパレスチナ自治区の幼女。
イスラム武装集団によって石打の刑に処せられたソマリアの男。
集団は笑顔までにじませている。不倫の科(とが)だという。
頭が欠けた月のようにきれいに吹き飛ばされた
アメリカ兵の後ろ姿(脳の40%を失ったが一命は取り留めた)。
強いて無感情にみる。
そうしないと、正視できない。
それでも、ここに来てよかったと思った。
悲惨や愚行になにができるというわけでもないが、
少なくともこれら事実の一コマをみる機会を得てよかったと。
たしかにありふれた悲劇の場面となったものもある。
しかし、30年、40年前のことではない、
この1年のなかで間違いなくこの世界で起こった出来事なのである。
ただ単に写し撮られた過去の一瞬ではない、
未来をも語るシーンなのだ。
日本が、東京が、自分のいる場所が
荒涼とした砂漠のなかの一点のオアシスのように感じた。

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『アポリネール 動物詩集』山本容子絵

買って失敗だったな、という絵本がいくつかある。
そんなやつは、なめるように本棚を見回しても、
ふしぎなことに目に入ってこない。
自らその存在を消し去っているからに違いない。
『アポリネール 動物詩集』。
この絵本もそんななかの一冊だった。
絵は山本容子さん。
近代フランスの代表的な詩人とエスプリあふれる画家、
申し分ない組み合わせに思えた。
買ってきてしばらく日が経ち、頃合いをみて絵本をひろげた。
気持ちが軽やかで、ひとりになりたいときで、
しずかな時間が外と内に流れている。
絵本は、"絵本ごころ"のときがやってくるまで、
ひろげないことにしている。
そうして、この絵本もめくられていったのだが、
ぴんとくるものがなかった。
はっとさせる、えっとおどろくものがなかった。
楽しみにしていた貴重な時間が漫然と過ぎていった。
本屋でちゃんと見て選んできたんだろ・・・。
そう言われるかもしれないが、書店では、絵本を読んだりはしない。
絵本という"宝もの"を味わうのは、「絵本ごころ」のときだけだ。
ざっと絵柄を眺めて、はじめのテキストと無作為に視線を落とした数行を読む。
それを2度、3度繰り返して(絵本の魂!?も量ったりしながら)
買うかどうかを判断する。
この本もそうした瞬間的な己の目利きで選んだきたものだ。
しかし、しかし・・・。
たまにそんな絵本を手に入れてしまうこともある。                   
数日前のことだ、書棚のはずれの背表紙のジャングルからヌッと、
『アポリネール動物詩集』があらわれた。
この絵本がどうしてつまらなかったのか、知りたくなった。
そして何年かぶりにひらいてみたのだ。

    いるか
   群れをなすいるかよ、君たちは海で遊ぶ。
   しかし、波はいつもにがい。
   ときにはぼくのよろこびだって爆発するか?
   とはいえ、人生はやはり残酷だ。
                 (窪田般彌訳)

この詩句をナンセンスと思っても、無邪気と感じてもどちらでもいいと思う。
アポリネールの詩が右ページに手書きで縦書きされている。
ひらがなは、こどもの字のようにアンバランスでかわいらしい。
堂々とした漢字が大人のおんなのようにうつくしい。
詩と文字の世界が、透明な一幅の絵となっている。
意味を求めたくなる詩であればそうはならないだろう。
その左ページには、この詩にインスピレーションを受け描かれた絵が収まる。
山本容子さんの絵は、具象そのものよりも色づかいや線の動き、構図の妙に
視覚の神経がうばわれて、それが楽しく、心地いい。
あの独特の文字も山本さんのものだ。
こうして10篇の詩と10点の絵が20ページ、見開きで読み、
眺められる体裁をとっている。

       くらげ
      くらげたちよ、むらさきの髪の毛の
      不幸な頭たち
      君たちは嵐のなかで上機嫌
      ぼくも嵐を楽しもう、君たちのように。
                    (窪田般彌訳)
     
たとえば、逆に絵から詩を起こしてみることを想像してみよう。
無限に、そして無秩序に詩は生まれてくるだろう。
言葉も形も有限なのに、その有限から無限の世界が生まれてくる。
創造とはそういうものだ。
毎日、毎日、決まり事に約束事、人は意味や価値を求め、
理解してもらうことに必死だ。
それが社会の中で生きていくということだ。、
しかし、ときに爆発が欲しくなり、嵐も楽しみたくなる。
この絵本のなかでは、平和な無秩序さと繊細な無意味さが
生き抜いている。
現実と日常に疲れている大人に
効き目がある絵本であるということに気づいた。
"絵本ごころ"とは、
また別の時間軸で手に取られるものだったのだ。

 

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