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Today's Shot / 言葉の風

2009年09月20日
Today's Shot
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言葉の風

目が覚めると一面の青空。
風が目の前の森をゆらしている。
こんな晴天はまたとない。
休みはさらに3日ある。
昨日は近所の小学校で運動会があった。
ああ、これがほんとうの運動会だ、
自分たちの子どもの頃といっしょだ、と思った。
ビニールシートがあちこちに広がっている。
学校の敷地だけでなく、隣接した公園の芝生にまで
色とりどりのシートが広げられている。
昭和40年代にはビニールシートなどなかった。
ゴザを敷いたものだ。花見の時も。
校門は全開ではなく、少しだけあけられ、
パトロールと書かれた腕章をした父兄が鉄の扉の前に立つ。
そこだけ見れば事件現場のように物々しい。
でも、運動場には子どもたちがめいっぱい広がって、
大漁節の音楽にあわせて踊りをおどっている。
あんな楽しそうな演技はなかった、私たちの頃は。
人間ピラミッドかそんなものをやっていたのではなかったか・・・。
競技も演目もだいぶ様変わりしているのだろう。
児童数の多い小学校ということもあるが、
地域一帯が運動会ムードで浮き立っている。
音楽もアナウンスも遠慮なく轟きわたる。
いいじゃないか、年に一回の運動会だもの。
なにが子どもの頃といっしょかといえば、
この年に一回の独特の高揚感なのだった。

see you tomorrow!


2009年09月19日
Today's Shot
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言葉の風

「寸鉄人を刺す」
言葉というものは怖いものだ。
短く的確な表現で人の心に強い印象を残すというのが
ことわざの意味だが、
「寸鉄人を刺す」ような言葉は、
決して怖いものではない、それどころか
うつくしいから、心に残るのだ。
編集という仕事をはじめてみて、
いかに人と人とのコミュニケーションが大事かと身を以て感じている。
同時に「メール」という通信手段をこれまでの何倍もの頻度で
使用するようになった。
相手に語りかけているにもかかわらず、
メールというのは基本的に沈黙している言語だ。
そこに記されている言葉以上の表現は不可能である。
手書きの手紙ならその人の文字、使用する筆記具や封筒、便せん、
切手などで、ある意味、言葉以上の表現性をもたせることもできる。
しかし、ネットのメールは言葉だけの勝負である。
それに耐えかねてか、どうかはわからないが、
絵文字や(笑)などの記号が使用されたりもする。
伝えたいことの過不足は致し方ない。
しかし、礼節だけは絶対条件だ。
たとえ年下でも敬語を使用する。友人ならば、親しき仲にも礼儀あり、
少々、慇懃なぐらいが逆にいい。
いちばん困るのが、口語そのままのような文体メールが来たときだ。
これはなんど経験しても、慣れない。
どんな親しい人からのものでも、違和感は拭えない。
寂びた釘で突かれたような鈍痛を味わう。
その人も相手によって、礼節あるメールを書くこともあるのだろうが、
私は、人によって、あるいは立場によって、言葉遣いを変えたくない。
これをモットーとする。

see you tomorrow!


2009年09月18日
Today's Shot
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言葉の風

暑くもない、寒くもない、この季節。
自転車ほどすばらしい乗り物はない。
いま乗っているのは細いタイヤのシティロードタイプだが、
つくづく、洗練された機械だと思う。
「人馬一体となって」という言葉があるが、
ときどき、生きものにまたがっているように感じることもある。
まさに「人輪一体」となって道を駆ける。
ギアは15段。どんな急坂でも長い坂でも
登りで苦痛を感じることはほとんどない。
自宅から5、6キロほど離れたところに冨士講の小山がある。
ちょっと空がオレンジ色がかり、いい夕焼けが見られそうなとき、
さっと、自転車に乗って出かければ
小山の頂から富士のむこうへ沈む太陽を眺められたりもする。
人力を最大限に発揮する機械、それが自転車だ。
フランス映画には、自転車に乗っているシーンがよく出てくる。
それは「詩」の一節のように効果的に用いられる。
F・トリュフォー『あこがれ』のベルナデット・ラフォン、
『突然炎のごとく』のジャンヌ・モローが印象に残る。
邦画の傑作『茶の味』では、
主人公の少年が自転車で農道を疾走する長い長いシーンがあったが、
少年の「詩」を目で見ているような不思議な感動におそわれた。
自転車の疾走をたとえれば、
「無言の詩」となるかもしれない。

see you tomorrow!


2009年09月17日
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道端のそこかしこに、
まっ赤な花を咲かせた曼珠沙華が見られるようになった。
東京の下町に長く住んでいた。
ある寺の敷地に曼珠沙華がいっせいに花を咲かせる。
その姿を眺めにいくのが初秋の楽しみでもあった。
芝の緑を背景に火のごとく立ち並ぶ赤い花は、可憐というよりも
毅然として門の前に立ち尽くしていた。
彼岸花とも呼ばれ、その姿は寺や墓地によく見られる。
茎に毒をもっていて、モグラやミミズを寄せつけないという。
墓地に多いのは、昔は土葬だったので、
死体が動物などに荒らされないようにするためだったとか。
ウェキペディアの受け売りだが、
先の戦争の際にこの曼珠沙華は食料にされた。
毒を抜けばデンプン質を含む茎は貴重な栄養素となった。
「救飢植物」という言葉があるのをはじめて知った。
世界が飢餓に追い込まれるのは時間の問題だ。
すでにアフリカをはじめとする国々で何十億の人たちが
飢えに苦しみ続けている。
「救飢植物」、その文字に一瞬滑稽な感じがして笑いかけたが、
われわれが、また曼珠沙華の毒を抜かねばならない日が
こないともかぎらない。
身体を粗食に慣らしておいた方が賢明であり、
且つ正しい生き方だ。

see you tomorrow!


2009年09月16日
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「外国のクラシックなどぶっとびますよ」そういって、
遠藤賢司さんから薦められた『日本の現代管弦楽作品集』を
図書館から借りて聴いている。
演奏・NHK交響楽団、指揮・外山雄三で1982年に収録されている。
山田耕筰、伊福部昭、芥川也寸志といった名前だけは
知っている作曲家から小山清茂、矢代秋雄などはじめて目にする作曲家まで
14名14曲の作品がアナログレコード4枚に収められている。
クラシックは“空間”だと思っている。
この世にないひろがりへ導いてくれる音楽だと思っている。
レコードに針を落とし感じた空間は、
きわめて透明で水平的な眺望だった。
西洋クラッシックとは根本的に違う空間性を感じた。
これまで聴いてきた中世からロマン派までのクラシックは、
垂直的な空間として自分のなかに位置していた。
そこに旋律が光明となって差し込み、こぼれ、
ふりそそぐ・・・。
西洋クラシックを聴く喜びはそこにあったのかもしれない。
日本人が創作したこれらのオーケストラ音楽には、
高みから見下ろされる威圧感がまったくない。
音そのものと向かい合って、音と同化する快感がある。
現代音楽にありがちな苦渋に満ちた表現はどこにもない。
この空間の透明感と眺望ははじめての体験だ。
音楽を聴く、まったく新しい世界が切りひらかれた。
すべては出会いである。

see you tomorrow!


2009年09月15日
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1960年代末から1970年にかけて、世界では、
いやもしかしたら宇宙ではなにか大きなバイブレーションが
起こっていたのではないだろか。
ベトナム反戦運動、パリ5月革命、全共闘、ウッドストック、
ヒッピー、カウンターカルチャー・・・。
それも一時代的なものではなく、
バイブレーションは、後の世代にも波及していく。
「この惑星(このほし」)の<今月の作家>10月配信は、
『インド櫻子ひとり旅』を上梓した阿部櫻子さんを取り上げる。
渋谷で昨日、櫻子さんの取材を行った。
彼女は、民俗芸術<ミティラー画>に魅せられ、
ヒンディー語を学んで単身インドへ渡り、
電気もガスもない僻村に滞在したり、さらに奥地へと進み、
「先住民の入れ墨」を追ってきた。
外見は華奢で色白で、とてもひとりで
そんなハードな旅をする女性には見えない。
聞けば、数日後にはNHKの取材スタッフとして
パプアニューギニアのへ50日間ほどのロケへ出かけるという。
最高峰ウィルヘルム山4508メートルが行き先という。
彼女は1968年生まれ。
最近、この世代の女性と会う機会がいくつかあった。
(巷ではアラフォーとも呼ばれているらしいが)
なにか違う、これまで自分が知っている日本の女性と違う。
外見はごくふつうなのだが、本質が違うように思えてならない。
共通しているのは、アジアに魅せられていること。
束縛されていない生き方。自然体・・・。
あの時代のバイブレーションの中で生まれてきたことに
関係しているのではないかと密かに思っている。

see you tomorrow!


2009年09月14日
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メインイベントは人工池での灯籠流し。
昨日、目の前の公園で地域の祭りがあった。
主催は、高層住宅に住む人たちが中心となる各町内会。
昼から出店がならび、池の脇にこしらえたステージでは
小学生の吹奏音楽が鳴り響き、
幼児向け教材DVDに出演するお兄さんがゲスト出演するなど
企画が目白押し。
いよいよ、夜となり灯籠が池に浮かぶ。
が、なにかさえない。数も少ない。
幻想的なはずの灯籠は、排水口付近にプカプカしている。
にぎやかなのは、夜のステージ。
町内の有志が演歌、歌謡曲をここぞとばかりに歌い上げる。
夕暮れ時にはグノーのアヴェ・マリアが歌われていた。
闇鍋のようになにが出てくるのかわからない“オンステージ"。
芝生では、家族同士が睦まじく小宴会。
いい感じだが、気のせいか、みな顔がうつろに見える。
祭りなのだが、祭りがない。
シンボルの灯籠は、力なく池に浮かび、
クライマックスもやってこない。
元気なのは子どもたち。夜の芝生を転げまわる。
提灯と闇。子どもの頃、祭りは夜というものを教えてくれた。
夜に会う友だちや浴衣姿の女の子が新鮮だった。
祭りを求める人のこころは変わらない。
それが祭りを生んできたのだから。
きっといつかだれもが高揚する祭りがやってくるだろう。

see you tomorrow!


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