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Today's Shot / 言葉の風

2009年11月22日
Today's Shot
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言葉の風

クマやネコやカエルが擬人化された物語はたくさんある。
絵本のなかでは、クルマや機関車もおこったり、泣いたり、わらったりする。
しかし、山や海や空がキャラクターとなった作品はあまりみかけない。
まして主役級の作品となると、思い当たるのは、
『ぼくのうちに波がきた』だけだ。
もともとはメキシコの詩人オクタビオ・パスの
『波と暮らして』を原案としているが、
これぞ、絵本のために生まれてきたような奇想天外の話だ。
マーク・ブエナーの絵がはじめどぎつく感じられたが、
怪異な展開とちょっと残酷なラストにマッチしている。
なによりも波がいきいきと描かれている。
キャサリン・コーワンの文は、詩人の原案にこたるように
十分に詩的であり、訳もすばらしい。
その訳者、中村邦生があとがきで、
エミリー・ディキンスンの詩篇のなかに、
海から男の波が街までついてくるという作品があり、
そこからオクタビオが示唆を受けた可能性もあると書いてある。
エミリーの詩想が深くオクタビオのなかに潜在されていたのかもしれない。
あるいは、われわれの遺伝子に刻まれた、
海の波はどこまでも押し寄せてくる恐るべき闖入者という
深層意識がインスピレーションを吹き込んだのかもしれない。
ふたりの詩人がいずれにしても波の魅力につかまったことだけは確かだ。
オクタビオの詩集をめくってみると、
水のイメージが詩篇のそこかしこに散りばめられている。
そのなかには水でできたスカートをひらめかせる女もあわわれる。
太陽の国、灼熱の地から生まれた詩人にとって、
水は格別なエレメントにちがいない。
 月は水でできており、太陽も水であり・・・。
そんな一節もみつけた。
砂漠のように乾いたイメージの月だが、
つい最近そこに水が眠っているのがわかった。
信じがたいことだが、太陽にも水があることは定説となっている。
言葉はそれ以前に詩人に降りてきたものだ。
水に魅せられた詩人の無意識のアンテナが立っていたのだ。
波を連れて帰る気もよくわかる。

see you tomorrow!

ぼくのうちに波がきた (大型絵本)


2009年11月21日
Today's Shot
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言葉の風

いつまでも歳をとらないのはおたがいさまである。
亡くなった友人を思い出して
自分の変わらないしこりのような部分に気がつく。
われない、つぶれない、きえない、そんな部分に。
ああ、これがたましいってやつかもしれない、と思う。
そんなことを友人は教えてくれる。
「表現なんてくだらないことをやらかそうとするな」
かれの早すぎる晩年の口癖だった。
アラバール『ファンドとリス』が最後の舞台となった。
死んでしまったから最後になったのではなくて、
それをかぎりに芝居の世界から足を洗ったのだった。
公民館の会議室のようなところで、
壁そのままを書き割りに主役を演じたらしい。
仕事で行けなかった、といったが、
行こうとすれば行けたはずだった。
それからまもなく自分のふるさとで家業を継いだ。
魚河岸での仕事に精を出しながら、
思想書と小説を中心に読書に耽っていたようだ。
年に一、二度、港町に住むかれに会いに行った。
会うば崩れるまで酒をあびた。
「表現なんてくだらないことをやらかそうとするな」
からむわけでも、ぼやくわけでもなく、
そんな言葉を思い出したようにはき出して、笑った。
いわれたほうは間抜けのように笑うしかなかった。
矛盾しているし、的も得ている。
表現自体がくだらないのか、くだらない表現者になるな、
といっているのか、判断できなかった。しようともしなかった。
でも、あの小憎たらしい笑みは鮮烈に記憶に残っている。
わるくない表情だった。
ボウイのFive yearsが好きだった。世界があと5年で滅ぶ歌だ。
ツェペリンのNo quater を日当たりの悪い畳の部屋で何度も聴かされた。
命日にはテーブルの上にスコッチのオンザロックと花を置き、
友人の好きだった曲をかける。
毎年のようになにかが起こる。
スコッチがなくて日本酒を供えたら琥珀色に変色したり、
ターンテーブルが勝手にリスタートして、
かれの好きな曲がもう一度繰り返されたこともあった。
今年は、映画『祭りの準備』を借りざるを得なくなった。
友人の仕業に違いない。
かれと映画の話をしたときに盛り上がった作品だ。
原田芳雄の万歳のシーンがまたみられる。
こちらもまだ祭りの準備中だ。
供養されているのはこちら側かもしれない。

see you tomorrow!


2009年11月20日
Today's Shot
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言葉の風

夕刊を広げて、思わずあっと声がもれた。
廃墟となりつつある建物のちいさな写真。
ふるさとの図書館だ。
女優の若尾文子さんの回想録で仙台の旧市立図書館が語られていた。
本が一番の友だちだったという少女時代、学校の帰り道によく寄ったという。
世代が違うから図書室で同じ空気を吸ったということはないが、
女優さんがなつかしむ図書館に自分もよく通った。
若尾さんは、色香を放つというよりも清楚な人。
硬い椅子で背筋を伸ばしページをめくる姿がたしかに似合いそうだ。
井上ひさしの青春小説『青葉繁れる』のヒロインのモデルともいわれている。
疎開先の仙台で、さぞかしあこがれの的だったろう。
図書館はもう何年も前から閉鎖されている。
実家に帰ると子ども時代を過ごした場所を歩く。
そのたびに朽ちていく建物をみる。
ああ、まだある、という安堵の気持ちが湧くとともに、
荒れていく姿にせつなくもなる。
いくらなつかしんでも、やはり物なのだ。
それはコンクリートと鉄とガラスでできた、物なのだ。
きれいに跡形もなくなったら、その更地に立って、
広瀬川や青葉山、国見峠を見渡してみたい。
この季節になると、
はじめて友だちと連れだってでかけた図書館のクリスマス会を思い出す。
目をつむると、重々しいわたの雪が乗ったクリスマスツリーや
そこに飾りつけられた金と銀のボールの輝きがまぶたに浮かんでくる。
スチームのあたたかさにくるまれる。
そしてもうあそこでしか嗅ぐことのできない匂いがやってくる。
あの時代の本と子どもたちの匂いだったのだろうか。

see you tomorrow!


2009年11月19日
Today's Shot
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言葉の風

不思議なことが起こると得した気持ちになる。
人があまり体験できないことを体験するからだろうか。
外気功という施術がある。
「気功」というとなかにはあやしいなあ、と感じる人もいるだろう。
実際インチキ商売をしている自称「気功師」は少なくないと思う。
内臓の慢性疾患を抱えてる。この4年ほど気功教室に通い、
ときに外気功という治療を受けている。
「東京異国物語」第1回で紹介した朱剛さんの教室だ。
昨日、久しぶりにその外気を受けた。
患部周辺に手や指を当てるだけなのだが、
施術中やその後にさまざまなことが起こる。
いちばん驚いたのは施術中、目を閉じているときに
強い光が差し込んでくることだった。
水面から跳ね返ったような光が眼球をなでるようにあらわれ、
ときにまぶしいくらいの光が頭部いっぱいに広がる。
昨日はそれほど強い光は感じられなかったのだが、
2度ほど光が急にふくらんだことがあった。
二人しかいない教室にだれか入ってきたときのことだった。
ドアノブがカチャリと音を立て、扉が開く、
その音にまるで合わせるように光があらわれた。
次の予約の人が教室に入ってきたのだった。
入口のドアから施術スペースまで5、6間、離れている。
そこはカーテンで仕切られ、ドアの向こう側よりもぜんぜん明るい。
その人は一度教室から出て、また入ってきた。
同じように閉じた目のなかで光が大きくふくらんだ。
教室のはじめの時間に30分ほど全員で瞑想するのだが、
気持ちが静まってくると強烈な光がやってくる。
光がなんなのかは先生は明言しない。あまり気にしないようにという。
家で瞑想しているときは光はまずあらわれない。
気は光です。先生はいう。
人は光をもっているのではないか。

see you tomorrow!


2009年11月18日
Today's Shot
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言葉の風

渋谷シアター・イメージフォーラムへはじめて行ってきた。
何年も何年もずっと気になっていた映画館だった。
映画通ならば知らないひとはいないだろう。
待合いスペースもない、100席程度の小さなシアターだがいい感じだ。
背がすっと伸びる椅子、目の前にだれか座ってもスクリーンが隠れることがない。
まっくらな空間のなかで映像のなかにまったりと浸れる。
イエジー・スコリモフスキ監督『アンナと過ごした4日間』を観た。
うつくしいものがなにひとつとして出てこないのにうつしい。
うるわしいものがなにひとつとして出てこないのにうるわしい。
そんな映画だった。
主人公の男はストーカーだ。登場する早々、斧を隠しもったり、
切断された手首をつかんだりする。
「生」手首があらわれた時点で、
この作品は救いようのない悲劇にむかうことは間違いないだろう。
そう確信させる。爪の間が真っ黒い汚い手、視点の定まらない目。
この男はかなりキテいる。狂気の愛の標的はというと、
かつてはうつくしかったかもしれないと思える程度の女。
微妙に肥満し、微妙に老けている。
映し出されるのは、旧共産圏の寒々しいけしき。
廃工場やボロ車、安っぽい居間に貧しい身なり。
凍てついた川に牛の死体が一頭まるごと流れていく。
すさまじい風景だ。
そんな悲惨な光景と謎めく物語のなかに一瞬のシーンを差し込むだけで、
天啓が降りてくる。一瞬の場面は花や太陽ではない。
愛でも優しさでもない。人間の放つふしぎな光かもしれない。
映像芸術の殿堂への初入場にふさわしい作品だった。
シアターから出て外の光にくらくらした。

see you tomorrow!


2009年11月17日
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言葉の風

からだが地動説を覚えるようになった。
訊ねたことがないのでわからないが、
ひとは普通、太陽が東から昇り、
ゆっくりそのまま上昇しながら、やがて西へ沈んでいく、
と見ているのではないだろうか。
もちろん、だれも天動説なんか信じているわけではない。
しかし、地上にいるかぎり、見た感じはそれが自然だ。
ライフスタイルの関係で、日の出と日の入りに立ち合うことが多い。
その時でしか体感できないのだが、
地球が自転していることをやっとからだが覚えるようになった。
もちろん曇天ではだめだ。雲ひとつないほうがいい。
太陽をまるごと見られる状況がベストだ。
なんの意味もあるわけではないが、
ちょっとだけ宇宙的な時間を楽しめる。
太陽が昇ってくるというイメージでは地球の動きが感じられない。
自分の住む町が太陽に向きつつある事実を想うだけ。
それだけで、ふしぎふしぎ・・・地球が自転をはじめる。
自分が惑星という球体に乗っていることが実感できる。

see you tomorrow!


2009年11月16日
Today's Shot
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言葉の風

1と自身の数でしか割りきれない素数。
素数の謎は奥深いという。
ランダムにしか見えない素数の並びなのだが、
宇宙でもっとも調和のとれたかたち「円」のπと関連していたり、
物質の最小レベルの世界「核分裂」と符号するかもしれないという。
そんな内容の番組がNHK日曜スペシャルで放映されていた。
約100年前に天才数学者リーマンが打ち立てた驚異的仮説を実証するために
これまで名だたる数学者が挑んで挫折した。
なかには精神を病んだものさえでた。
その数学者をラッセル・クロウが演じて映画にもなっている。
たいして面白い作品ではなかった。
この番組のほうがずっと面白い。
75歳になるフランスの老数学者がエアロバイクに跨り、
玉のような汗を流している。
一生をかけてリーマン予想に取り組んでいる数学者だ。
健康のためなどという甘っちょろいものではない。
リーマン予想を実証し、その謎を解明するまでは絶対に死ねない、
いや死なないという迫力が伝わってくる。
素数という数の謎を突きとめれば、宇宙誕生の謎、
万物の根源が解明されるというのだ。
死ぬわけにはまいらぬ。
先日、20代の若い人と酒を酌み交わす機会があった。
「なんでおれたちは生きているんだろう、
どうしてこの世界に存在するのかな」
酔っぱらったオヤジのたわごとに
「そんな答えの出ないことに悩むより、
もっとやるべきことがほかにあるでしょう」とたしなめられてしまった。
悩んでいるのではなくて、
その問いが、やるべきことをやるときの一番の原動力なのだが。
まっ、問いの答えは、素数の解明より難しいことには違いない。

see you tomorrow!


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