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Today's Shot / 言葉の風

2009年12月14日
Today's Shot
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言葉の風

早暁、昇る日は雲にかくれ、空気がはりつめている。
つめたい部屋のなかを夢遊病者のようにわたっていき、
1枚のCDをつまんでプレイヤーにセットする。
まろやかな男声による前唱が流れはじめる。
やがて詠唱、賛歌となる。
唱えられる祈り、交わされる祈り。
響いてくるものは、人の声以外なにもない。
そして静寂した空間の柱が立つ。
この時期、無意識にかけてしまうのが『グレゴリオ聖歌』。
2枚レコードを持っていて、1枚は中世スペインの単旋律聖歌。
男子修道僧による聖歌だ。家人の祖父の遺品から分けてもらった。
もう1枚は、目白台にある東京カテドラルで買った、
ベネディクト会女子聖歌隊による聖母マリアを讃えたもの。
これらは実際、修道院の聖堂で録音されたものだ。
ときどき、歌と歌の間に床の軋みかなにかのかすかな物音が聞こえ、
それがその場の空気感のようなものを伝えてくれる。
心が静まることは、とても気持ちよい。
もっとも個人的な幸福のひとときだ。
街も、どこもかしこも慌ただしさが増してきた。
走りながらころびながら、息切らしながら、でも
この喧噪に支配されたくはない。

see you tomorrow!


2009年12月13日
Today's Shot
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言葉の風

子どもの頃、ライオンに襲われかけたことがあった。
近所にちいさな森を切りひらいたバレーボールの屋外コートがあり、
そこの観覧席のいちばん上にライオンが腹ばいになっていたのだ。
立派なたてがみをしていて、悠然とこちらを見下ろしていた。
へびににらまれたカエルで、至近距離でその場にくぎ付けとなった。
いるはずのないものがいるという驚きよりも、
襲われて食べられてしまうという恐怖でいっぱいだった。
舌なめずりをしていたようにもみえたそのライオン、
じつはひっくり返った大木の根っこだった。
しかし、それがわかったのは数日後のことで、
あのときは逃げるという行動になかなか移ることができず、冷や汗をかいた。
見間違えといってしまえばそうなのだが、
あとからきた友だちもそのライオンを目撃し、
同じように身じろぎひとつできない状態となった。
『もりのえほん』という絵本がある。
「憧憬」感のある世界観と、
ハイカラな色彩感覚をもつ安野光雅さんが描いたものだ。
この絵本は安野さんの作品のなかでも異質なものだ。
緑と黒を基本とするかぎられた色づかいで、木々の茂み、樹幹、枝葉のかさなり、
森そのものの近景と遠景が淡泊に描かれる。
ヒトはいない。生きものもいない。しかし、目をこらしてみていると、
一見シンプルにみえる森のなかから出てくる、出てくる、
ゾウやトナカイ、チータ、サイ、クマ、ウマなど、
幹や葉っぱ、枝に溶けこんでいた形象が浮き上がってくる。
いわゆる、かくし絵だ。じつに巧妙に仕込まれている。
そのままのかたちで描かれているものもあれば、シュールなすがたもある。
リアルなかたちよりもシュールなもののほうがいきいきとしている。
シュールのほうが、断然リアルである。
なぜなら、ほんとうの森のなかにはシュールな幻影が充ち満ちているから。
森でみる夢もまた、現実のひとときなのだ。

see you tomorrow!

もりのえほん


2009年12月12日
Today's Shot
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言葉の風

世界をガラリと変えるような表現の可能性、
映画にはそれが残されている。
アリ・フォルマン監督『戦場のワルツ』を観てきた。
アニメーションを主体とした新しい技法による作品だった。
CGや純アニメでもない、
これまで味わったことがない映像世界にまず引き込まれた。
1982年に起きたパレスチナ難民虐殺事件を中心においた物語だ。
主人公である元イスラエル兵は、加害者ではないにしても、
虐殺を傍観した罪悪感を背負っている。
そして、目の当たりにした凄惨な現場ゆえに記憶がその事件を削除してしまった。
PTSDの一種である。
失われた記憶をかつての兵士仲間たちの証言で取り戻していく。
そのプロセスが不思議なリアリティを持ったアニメーションでもって
再現されていくことにこの映画の独自の手法があり、世界観がかくされている。
幼女の亡きがらとそれを目撃した証言者の言葉が涙をさそう。
一見、反戦的なメッセージをもっているようにもみえるが、なにか腑に落ちない。
虐殺したのはキリスト教徒ファランヘ党。被害者の目玉まで取り出したという。
イスラエル兵は直接手を下していないものの、援護のような役割までさせられる。
しかし、かれらにとっても虐殺は黙認できないことだった。
そう語るのは映画である。
事実に基づいた「フィクション」と、
証言という「ドキュメンタリー」が交わった映画である。
最大の事実である虐殺、その被害者たちは、死体でしかない。
遺族の泣き声とうめき声でしかない。
悲劇の一団として表層に現れ消えていく。
残ったものは、娯楽的にも、芸術的にも質の高い映画作品だった。
虐殺というノンフィクションさえ、映画芸術のモチーフとされてはいまいか。
殺された側は芸術性はおろか、表現すら永遠に封印されたままだ。

see you tomorrow!


2009年12月11日
Today's Shot
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言葉の風

「資本主義の世界では、いかにして多くの金を儲けるかを
  考えることがよしとされる」(『クーリエ・ジャポン』1月号、
  マイケル・ムーアのインタビュー記事より)
会社の利益を上げる、それだけを生き甲斐とする知人がいた。
ビジネスライクという言葉を伝家の宝刀のごとく取り出す。
厳しくいかせてもらいますよ、
情など一切差し込みませんよ。それが企業論理なそうだ。
発注者側にある強い立場からの戯言だと思った。
彼は、下請けの値段を徹底して下げるという一番単純なやり方でそれを実現し、
社内での評価を大いに高めたそうだ。
世間でいう3流の引越会社があった。
まだマイナーな時代に2度ほど利用した。
スタッフは元暴れん坊風な感じだったが、
いずれのときも、みんな気持ちよく仕事をしてくれた。料金も安かった。
「ベンキョウ」するのがその当時の宣伝文句だった。
年月が経ち、いつのまにか上場企業となっていた。
昨年夏、いまのところへの引越で三度(みたび)その会社を利用することにした。
サービスの質が上がってさらにいい引っ越し屋さんになったかと思いきや、
その逆で、営業は悪徳セールスのごとく畳みかけるように見積もりを作成していき、
現場はギスギスし、当日はスタッフ同士がケンカまでしでかす始末。
コールセンターは常につながらず、電話にでれば付け焼き刃のマニュアル対応で、
ハイ、サヨウナラ。
ノルマ、利益、効率を焚きつけられて、だれもが炎上しているようだった。
企業の社会的責任は、法を守っていればいいというわけではない。
企業はちいさな国家のようにその権力を内外にふるう。
利益至上主義、それがすべての企業の本質的な理念であり、
それを奨励するのが資本主義だ。
そこから人間らしい本当の豊かさが生まれてくるだろうか。
マイケル・ムーア監督の『キャピタリズム』が上映されているが、
資本主義に代わるシステムの考えが提案されているという。
さて、どんなものか、興味深い。

see you tomorrow!


2009年12月10日
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言葉の風

クリスマスムードが希薄となったのは、
気のせいではないだろう。
欧米のいいとこ取りの典型的なパターンでもあるクリスマス。
いいジャン! 楽しければ。 それもケッコウ! けれど、
“書き割り”のようなJAPANクリスマスも不況の風にさらされて、
寒々しいかぎりだ。
繁華街で居酒屋のチラシを押しつけるサンタさんはおそろしくもある。
かつての異常な盛り上がりかたも苦手だが、
この寂寥とした空気も、ちとやるせない。
むかしむかし、ふりかえれば、
1960年代ぐらいまで、クリスマスはしあわせをかみしめる、
そんなひとときだった。
あの頃、一般的な家庭の子どもにとって、
何か買ってもらったり、ケーキを食べさせてもらったりというのは、
めったやたらにあることではなかった。
わくわくして、飛び上がって喜んだりもしただろうが、
子どもながらに、そのしあわせをかみしめていたように思える。
そうしたいくつかのクリスマスの思い出は、
宝ものでもある。
目に浮かぶのは父や母の若い姿だ。
もっと、しあわせになろう、もっとしあわせになれる。
あれから世界有数の消費大国となった日本。
あふれかえるものの豊かさの時代、そして格差社会の到来。
家族、コミュニティ、尊厳、モラル、慈しみ…
豊かさのなかで日本人は多くのものを失った。
そしていまだ失いつづけているのだが、
人間を失いはじめてはいないだろうか。
かみしめるものはいまどこにあるのだろう。

see you tomorrow!


2009年12月09日
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言葉の風

駒込・六義園の紅葉はいまが絶頂とばかりに見事に色づいていた。
その庭園でコロンビア出身のエクトル・シエラさんに話しを伺った。
シエラさんは、「国境なきアーティスト」の代表をつとめる。
武力衝突の犠牲となっている人々に、アートやエンターテイメントを通して、
心の面でのケアをおこなう組織だ。
そのウェブサイトのページには、
世界でいま起こっている戦争、紛争、虐殺・テロ行為が綿々と記載されている。
悲惨な状況は書ききれないほどある。
シエラさんの母国コロンビアでは、
長年に亘る内戦で暴力が日常化しているという。
それが子どもたちの心をいかにむしばんでいるのかを話す顔は、
うつろにも見えた。
しかし、それはこれらの問題と長く向き合っていく覚悟、
持久戦の表情なのだろう。
痛みや苦しみを浄化させるのがアーティストの役割である。
それがないものはアートではない。
そう言い切るシエラさんの目に強いひかりを感じた。
戦争だけが苦しみではない。
この世界に存在するということ、そこに人間の苦悩がある。
詩人であり、作家でもあるシエラさん。
その言葉の端々には、深い思索がにじみでる。
六義園は、紅葉を愛でる人たちでにぎわうが、
彼の目はどこか遠くをみつめているようだ。
茫洋とした感はない。まっすぐでおだやかな視線だ。
エクトル・シエラさんの紹介は「東京異国物語」で。
12月24日の配信予定です。

see you tomorrow!


2009年12月08日
Today's Shot
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言葉の風

風呂が心からありがたいと思う季節だ。
風呂なしの時代から薪で焚く風呂、そして灯油を使い、
都市ガスで沸かす時代を体験してきた。
母親と入った女湯で同級生の女の子と遭ってしまったときの恥ずかしさは、
いま思い出しても身が縮こまる。
薪で焚く風呂など中世と変わらないやり方だが、
昭和30年代には金魚売りやところてん売りが路地に屋台を引いてきたし、
富山からは薬屋さんがやってきた。
テレビ、冷蔵庫、洗濯機は生まれたばかりの製品で、
どの家庭にも三種の神器が揃っているわけででもはなかった。
昭和は遠くなりにけり・・・。
だれだったか、ある詩人が家風呂に入ると
ペシミスティックになると書いていた。
少年時から青年期まで同じ思いをした。
だからその頃、風呂にはできるだけ入りたくなかったものだ。
弛緩するということが嫌だったのではないだろうか。
ゆるむことが厭世的な気持ちにさせた。
いつも力が入りピンピンしている状態が生きている証だったのだ。
いまはいかに力を抜いてやるかに苦心する。
そして風呂がいちばん身も心もほぐしてくれる。
だからか、あかるい照明などつけず、
ぬるめの湯で1時間近く過ごすこともめずらしくない。
いろいろ考えることは考えるが、ピントがぼけてしまうので次第に考えなくなる。
そんなときにひらめきがあったりもする。
もうじきゆず湯だ。いよいよ年が押しせまってきた。

see you tomorrow!


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