みんな“コスモポリタン”だった70年代のユーゴスラヴィア

ヤドランカさん取材風景今はもう地図にその表記はないが、祖国は当時、ユーゴスラヴィアといった。国土のあったバルカン半島は、ヨーロッパ大陸とアジア大陸をつなぐ地域。昔から東洋と西洋の文明が混じり合い、多くの民族が集まってくる場所だった。
ユーゴスラヴィアは“南スラヴ人の国”という意味。バルカン半島に住むセルビア人、モンテネグロ人、クロアチア人、スロヴェニア人、マケドニア人を称して“南スラヴ人“といい、その人たちが暮らす6つの共和国と2つの自治州を合わせた連邦国だった。チトー大統領のもと、社会主義連邦でありながら各国各州の自主性が尊重され、西側の自由主義圏にも東側の共産主義圏にも属さないユニークな政治体制を取っていた。

「ユーゴスラヴィアは自由で、同じ社会主義の国でもチェコやハンガリーやポーランドとは違いました。チャウシェスクがいたルーマニアのような独裁国家とも全然違ったし、ソ連とも一線をひいていました。ユーゴスラヴィアのパスポートを持っていればどの国もビザなしで行けたし、チェコとかポーランドの人たちは本当にうらやましいと感じていたみたい」
もちろん社会主義に対する不満を口にする人もいたが、人々の間で爆発するような感情には至らなかった。窮屈な統制がなく、教育も医療も無償で、仕事をすればきちんと休みが保障されるという社会では、みんながのびのびと暮らしていた。1970年代のユーゴスラヴィアでは“平等”が行き渡っていたのだ。

ヤドランカさん取材風景「近所にはクロアチア人もセルビア人もイタリア人もユダヤ人もいて、みんなお隣同士。お互いの家に出たり入ったりしながら、“この家はちょっと違っておもしろい”みたいな感じでした。いろんな人がいるということが当たり前。黒人の留学生を見ても、ベトナム戦争のときにはベトナムから来た人を見ても、“外国人だ”っていう意識は全然なかったです。言葉が通じればもう友だち。私のジェネレーションはみんな普通にそう思っていました。みんな“コスモポリタン”。すばらしい環境でしたよ」

そんな平和な時代の最中にあった1984年、サラエヴォで冬季オリンピックが開催される。才能を開花させ、ミュージシャンとして活躍していたヤドランカさんに、大会の公式テーマ曲のシンガーソングライターを、という白羽の矢がたった。
その大会でユーゴスラヴィア代表としてただ一人メダルを取ったのが、アルペンスキーのユーレ・フランコ選手だ。ヤドランカさんの歌声をBGMに銀メダルが授与されたとき、国中が歓喜に沸き立ったという。美しい古都で開催されたこの冬季オリンピックは、ユーゴスラヴィアという国で行われた忘れられない最後のイベントとなった。

「私の人生は止まりました」祖国で起きた内戦

ヤドランカさんベルリンの壁崩壊(1989年)の余波がユーゴスラヴィアにも影響を与えた。
1991年、クロアチア共和国がユーゴスラヴィア連邦から独立したのを受け、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国では、住民の4割を占めるイスラム系ボシュニャク人と2割を占めるクロアチア人が独立を宣言した。しかし、人口の3割を占めるセルビア人が反対し、軍事力で首都サラエヴォを包囲する。以降、セルビア人勢力とボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国軍は4年間も戦いを繰り広げた。その結果は、死者20万人、難民200万人という戦後ヨーロッパ最悪の紛争となった。

当時、ヤドランカさんは日本にいた。日本のレコード会社と契約を結び、アルバムのレコーディングを進めていたのだ。
緊張感が漂う故郷の映像を目にして、「どうか、戦争だけはやめてください」。しかし、その願いもむなしく、1992年4月にはサラエヴォが包囲され、内戦が始まってしまう。
「そのとき、私の人生は止まりました。私は戦争と何の関係もないのに。自分の国はもうバイバイ。パスポートもなくなっちゃった」
大使館は閉鎖され、ビザも出ない。もちろん帰れない。ヤドランカさんは突如「難民」となって、日本に取り残された。祖国が、家族が、友だちが、自分の意志に反してバラバラになってしまう現実を、遠い日本でどれほど悲しんだことだろう。

私たちはみんなDNAがつながっている

ヤドランカさん「誰かが私の人生をめちゃくちゃにしました。故郷も、故郷の人たちもめちゃくちゃにしました。私はまだ生きているけれど、もう生きてない人たちがいる。母もそう、父もそう。ものすごく大事な人を亡くしました。本当に、何のために戦うの? 本当に、わからない」

ヤドランカさんの父はセルビア人で、母はクロアチア人だ。父親の民族と母親の民族が祖国で悲惨な戦争を繰り広げている。両方の血が流れる彼女に葛藤はなかったのか。
「結婚したとき、父も母も自分たちが違う民族だなんて意識もしてなかった。戦争が始まるまで、民族がどうのこうのなんて誰も気にしてなかった。外国の人はみんな、あの戦争が民族紛争だと思っているけれど、全然そういう問題じゃない。ダーウィンの『種の起源』を思い出せばわかる。祖先をずっとずっとさかのぼれば、私たちはみんなDNAがつながっている。だから自分たちだけが特別な民族だよ、自分たちが一番だよっていうのは、本当に、本当にバカみたい」
おばあさんはイタリア系、おじいさんの祖先はギリシャ系。そのまたおじいさんやおばあさんをたどっていけば、自分はいったい何人だというのだろう。バルカン半島だってヨーロッパだって、陸続きの大地ではそんな人たちばかり。問題は民族云々ではないのだ。

「戦争はお金の問題。ベルリンの壁が崩れて、社会主義だった国の暮らしは貧しくなった。すると悪い政治家が自分たちの権力をキープするために、そしてお金を呼び寄せるために、戦争することにした。そしてみんなに言いました。私たちは一番人口が多い民族だから一番強いんだよ、一番エライんだよ、って。考えられないこと。全然意味のないこと。バカヤロウです。戦争でたくさんの人が亡くなった。本当にもったいない10年間だった。だから今、平和になって本当によかった」

戦争を思い出せば怒りがこみ上げる。しかし今、平和が訪れたことを、ヤドランカさんはしみじみ、本当にしみじみと「よかった」と言う。そして、続けた。
「こんなバカなことを繰り返しちゃいけない。そのために私たちは“責任”を持つ必要がある。くだらない見栄っ張り同士のケンカに大勢の人を巻き込んで、その命までを奪う。そんな悪いオバカチャンを出さないために、私たちには選挙で政治家をきちんと選ぶ、という大きな責任があるの」

>後編へ続く(12月21日掲載)

(インタビュー・構成/長尾弥生 写真/和田剛)