2010年9月1日掲載

スペシャルインタビュー Vol.4 己を超え、世界を包括的にデザインする 現代アーティスト 鴻池 朋子さん(第3回)

「現代美術」の世界では、アーティストの発する概念や言葉が、作品と同等に、あるいはそれ以上に重視されるともいう。作品の抽象性、難解性が高まれば高まるほど、その意味づけに言葉を必要とする。そういったらあまりにも短絡的な見解になるだろうか。神話的、物語的とも言われる鴻池作品、そこから意味を超えて響いてくるダイナミックなメッセージを感じてきた。言葉をことさら必要とはしない。「全部言葉にしてやろう」そう本人は語るが、言葉にするにはもったいない躍動が具現化されている。今回のインタビューでは、鴻池さんからたくさんの言葉をシャワーのように浴びさせていただいた。自分の作品を支えるための言葉を一切弄(ろう)することなく、言葉は“現代”を語る言葉として、独立した作品のように迸(ほとばし)った。

(構成・インタビュー/大島憲治 撮影/小島マサヒロ

言葉にならないなんて、まずダメですね

鴻池朋子『焚書 World of Wonder』

焚書 World of Wonder / 2007 / アクリル絵具、鉛筆、色鉛筆、紙 / 各41.8 x 50.9 cm / 撮影:宮島径

鴻池朋子『水を泳るために現れ何言かをいう』

水を泳るために現れ何言かをいう / 2009 / 墨、雲肌麻紙、木パネル / φ150.0 x 4.5 cm / 撮影:宮島径

――作品集『インタートラベラー 死者と遊ぶ人』※の中で、鴻池さんはこんなことを書いていますね。「本来、人は人とつきあうことによって人を知り、多くの豊かな霊的実りを得てきたはずである。人が嫌になったからといって森を見てどうなるのか。何かが逆転してはいないだろうか」 この文章を読んだときに、ああこの人は、いわゆる芸術家的な内向性とは逆のエネルギーをもっているのだな、と理解しました。まだ、あります。「そろそろ『自分』という文字の中には何も入ってないのだということに気づいて、己で閉じてしまった部屋の扉を開けてみないか。小さな祖国から一歩外へ踏み出し、旅へ出てみないか」アーティストと呼ばれる人たちはあまりこういったメッセージを発しないと思うのですが。

※『インタートラベラー 死者と遊ぶ人』(2009年、羽鳥書店)より引用

「私は、非常に内的で他者と共有できないものをもっています。でも、人というのはみんなそうじゃないですか。それをどうやって開いていくか。どこに隙間や開くための鍵があるのか、それを探しているんだと思います。携帯やネットとか、みんなとコミュニケーションできるツールはたくさんできたけども、内的というか個人そのものの疎外感というのは、逆に強くなっている気がしますね。」

――これまでのお話を聞いていると、表現するときに他者とどう交流していくのかが、鴻池さんにとってまさに重要な鍵のように思えるのですが、一方で、人間の中には自分でもわけのわからないような世界が眠っていたりするわけじゃないですか。創作活動というのは、そのわけのわかんない世界が目覚めてくる時間のように思うのですが・・・。

「もう夢中でただ遊んでいることのできる時間というんでしょうか。絵を描いていると、人間が人間になるか、ならないかの時が宿るというのか・・・。ただそれをわざわざ他人に、こうなりましたって見せる必要はないわけですよね。でも、それを表現してお金をもらうっていう商売を、商売というか、このシステムに組み込んでいると、積極的にそれを考えざるを得ない立場にはなりますね。」

――自分が創造して描いてきたものを、こうしたインタビューの時に言語化を要求されますよね。それはやっぱり非常に話しにくいですか。ある意味、言語化できない、だから描いているんだということはないですか。

「いや、いやとんでもないですね。とんでもないっていうのは、できれば全部言語化してやろうって思いますね。悔しいから。言葉にならないなんて、まずダメですね。私はダメだと思われているようなことに常に疑問をもち、ずっとやってきたから。クソッ、もうこれを全部言葉にしてやろうっていう。それは裏を返せば、言語と絵の具を同じように思っているからですね。画材や道具として。道具の使い方をちゃんとマスターしてしまえば、自分の手と同じにように使えるようになる。 言葉というのは概念的です。でも、日本語には象形文字も含まれていますよね。私は文章を読むのが遅いんですよ。なぜかというと、絵を見ている感じなんですね。文字の形に引き込まれてしまうんです。風景を眺めているというか。まず、ビジュアルで情報が入ってきてしまうから、概念に到達するまで人よりすごく時間がかかる。3回くらい読んでやっと、言葉が意味に置き換えられる。だから、本の挿絵や表紙の依頼がきて、すぐ読んで返事しなくてはいけない場合、ギャラリーの担当者に協力を願って読んでもらったりすることもあります。」

鴻池朋子『インタートラベラー 死者と遊ぶ人』

『インタートラベラー 死者と遊ぶ人』
鴻池 朋子 著
(2009年、羽鳥書店)

『狐媚記』

狐媚記 (ホラー・ドラコニア少女小説集成)
澁澤 龍彦/著・鴻池 朋子/絵
(2004年、平凡社)

“幸せ”を描くことが課せられている

鴻池朋子スペシャルインタビュー

――鴻池さんを評して、「壮大な世界観」というキャッチフレーズがよく付けられていますね。ギリシャ神話のサテュロスやケンタウロスなどは、上半身が人間で下半身が動物です。いわゆる、半獣神ですが、鴻池さんの場合は、上半身がオオカミやチョウ、ハチで、下半身が人間の脚になっています。逆の合体パターンです。ギリシャ神話に対する意識というのはあるのですか。

「そういった意識はないですね。ある意味、みんなができることですよね。何かに足をくっつけるとか。何でもいいんですけども。コップに足がくっついちゃうっていうのは、アイデアとしてだれでも思いつくことですよ。」

――それこそ、ヒエロニムス・ボスの時代から。

「そうです、もっともっと昔からありますよね。それこそ人間と動物の区別がつかないような時代から。そういうあいまいな時代から、神話というのは創り上げられてきたのだと思うんですね。だから、人が鳥と同じところにいるような時代は、たぶんそうした一体となった絵が描かれても、なんら不思議ではなかった。そういうところには、神話に共感を得ます。わかるな、と思いますね。」

――では、今の時代、絵を描くというのはどういう意味を持つのでしょう。

鴻池朋子スペシャルインタビュー「私たちの親の世代は、みな戦争の時代を体験している最後の世代です。今年で戦後65年ですよね。あの時代を、親の世代が全部引き受け、飲み込んで人生を全うしようとしている。一方で私たちの世代は、高度経済成長期から飽食の時代になるまで経済的には安定した豊かなプロセスを進んできました。恵まれた、ある意味、守られた世界に置かれてきたと思います。そういう中で、辛いとか、苦しいとか言っていると、親の世代にしてみれば笑われるわけですよ。そんな程度のことが辛いのか、苦しいのかと。だけど、それでもやっぱりみんな辛いっていうのを目の当たりにし、ああ、人ってどんなに幸せでも、どんなに豊かになろうとも、生きるっていうことは結構シビアなんだっていうことが改めてわかったんです。それを乗り越えるためにどうするか。お金がなければお金を稼ごうという方向に目的をもてばいいけれど、お金もそこそこあり、人とのコミュニケーションもなんとなくできて、携帯でいつも連絡を取り合っているのに、寂しい。これは、“幸せ”というものをきちんと表現しないかぎり、乗り越えられない気がするんです。でも、“幸せ”って、絵になりにくい(笑)。幸せだったら、絵を描かなくてもよかったりするんですよ。だけど、それを描くということは、今の時代の大きな表現のひとつとして、みんなに課せられていると思いますね。」

>> NEXT 「つくりたいというよりも、見てみたい」