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2010年3月10日掲載

特集 銀河と地球のはざまを生きて― 世紀を越える旅人 ななおさかき

新詩集の編纂者 原 成吉 氏に聞く
ななお さかきという詩人、その生き方(前編)
「ココペリ」種を蒔くネットワーカー 
ななおというのは、「声の詩人」って言っていいと思う。
つまり、口承文学っていう、
ものすごく昔からある詩の伝統ですね、
それをずっと持っていた人。
自分の声を通して直接読者に伝える。
その意味では、ココペリそのものです。

原 成吉(はら・しげよし)
1953年、東京生まれ。独協大学外国語学部教授、専攻アメリカ文学(現代詩)。ななお さかきとは、1980年代に出会って以来、亡くなるまで、四半世紀に亘る交流をつづける。故アレン・ギンズバーグとの親交もあり、ゲーリー・スナイダーとは友人関係にある。著書として『記憶の宿る場所―エズラ・パウンドと20世紀の詩 』共著(2005年 思潮社)ほか。翻訳に、『ウィリアムズ詩集』 訳編(2005年 思潮社)、ゲーリー・スナイダー著『終わりなき山河』共訳(1998年 思潮社)、スナイダー詩集 『絶頂の危うさ』(2007年 思潮社)ほか多数。現在、思潮社より刊行予定のななお さかきの新詩集『ココペリの足あと』の編纂を行っている。

(インタビュー・構成/大島憲治 撮影/山ア真一)

遺言と黒いノートに残された未発表の作品

犬もあるけば 地球B ココペリ

――ななお さかきの新詩集が、今年(2010年)の5月に刊行されるとを伺っています。原先生はその編纂にあたっているということですが、新詩集刊行のいきさつと、その内容についてお聞かせ願えますか。

ななおが亡くなって、ぼくもすぐに長野の大鹿村へ行きました。そのときに、じつはななおの遺言があるので、見てほしいということを内田ボブ(※)から言われたんですね。この中に、自分の詩はいかなるコマーシャルにも使用不可っていうのがあるんですね。それと、詩の管理者という形で、何人かの名前が挙がっていました。自分の骨は太平洋に流すこと。葬式や墓も無用なども書かれていました。

さていま、ななおの本というのは一体どうなっているのだろうと思い、その状況を調べてみたんです。これについて、じつはゲーリー・スナイダーからも問い合わせがありました。
いま、日本語で読めるななおの詩集は3冊あります。『犬も歩けば』(1983年、野草社)、『地球B』(1989年、スタジオ・リーフ)、『ココペリ』(1999年、スタジオ・リーフ)なのですが、そのなかで『ココペリ』『地球B』は、ほとんど在庫がなく、入手できない状況になっている。この2冊の版元であるスタジオ・リーフの大築準(おおつき・じゅん)さんが、偶然というのか、ななおの亡くなる2日前に逝去されてしまったんです。これでは、ななおの詩が次の世代に伝わらない、それはもったいないっていう話になったんです。この役目は、ぼくらななおの仲間たちが担うべきだろうと。じゃあ、ぼくがやるかということになったわけです。新詩集は、詩出版の老舗である思潮社から刊行されますが、ぼくがアメリカの詩をやっている関係でこの出版社とは昔から縁があり、今回、引き受けてもらいました。

※内田ボブ:1960年代末に起こった日本のカウンターカルチャー、ヒッピームーブメントの核となった「部族」時代から、ななおを知る。長野県下伊那郡大鹿村の自宅で晩年のななおの世話をした。シンガーソングライターであり、長年にわたり反核・反原発活動を繰り広げる。

――新詩集には、未発表の作品などはあるのでしょうか?

ななおが亡くなったとき、大鹿村のほうに一冊の黒いノートが残されていたのだけれど、そこに英語と日本語の詩が書かれてあったんです。亡くなるまでの10年ぐらいのあいだに書かれた作品だと思います。これらも入れるので、新詩集には、既刊の詩集からセレクトされたものと、未発表の作品が加わることになります。
今回、こうした作品群をクロノロジカルに、つまり年代順にしたんですよ。ななおの作品というのは、場所と日付が必ず書いてあるんですね。だから、いつどこで書かれているのかっていうのがわかります。クロノロジカルにすることで、ななおが歩いてきた、地球を歩いてきたその足跡を辿ることができるだろうと、そうした趣旨のもとに編纂をしています。

――その黒いノートに未発表の詩は何編ぐらいあるのですか?

30編あるかないかぐらいかな。晩年の4、5年は書いてないですね。

――入手できなくなった既刊の作品群と未発表の詩を中心に、それが時系列で読めるというのは、ななおファンにはありがたいですね。はじめて読む人にとっても親切な編纂になります。楽しみな詩集です。

普通、日本で2000部、詩集を刊行するというのはごく限られた詩人になりますが、ななおの場合は、それくらいの部数はすぐにはけるのではないかと。まあ、これはちょっと楽しみだなっていうのはありますね。

ゲーリー・スナイダー「ななおは、小田雪窓老師に次ぐ先生」

――ななおは英語でたくさんの作品を書いていますが、英語という言語についてはどうだったのでしょう?

Nanao or Never

彼は、作品を日本語と英語、両方で書いていたんですね。ときどき、ななおはぼくのところへ原稿を送ってきて、これ見てくれ、どうだ?って。間違っているとこがあったら言って欲しいなんてこともありました。アメリカにいるときは、ななおは本を日本語ではなくて、英語で読んでいたし、ものすごく英語が流暢ではないけれど、独特の英語を話すんですよ。彼は小学校しか出ていません。ところが彼の英語というのは、コロキュアル、つまり口語体の英語、話し言葉の英語なわけですよ。だからジョークも言えるし、そこで議論もやれる。だから、アメリカへ行って自分の作品を自分で紹介し、笑いを取ったり、つまり作品のもつユーモアを英語で伝えることもできたんです。

また、すごく存在感のある人じゃないですか、アメリカではそれが際立っていましたね。たとえば、ほとんどの人は知らないと思うけど、Nanao or Never(※)という本がある。これは、now or neverというイディオムにかけてあるんだけれど、意味的には、「やるなら、いまっきゃない」「今がチャンス」なんですね。だからぼくは『またとない、ななお』という日本語にしました。ここには、ななおの友人たちが、エッセイを寄せています。ぼくの友達たちもいっぱいいる。ゲーリー・スナイダーがななおにインタビューをしているのも載っています。

※ Nanao or Never : Nanao Sakaki Walk Earth A (Blackberry Books, 2000)

写真

右端がななお、中央がゲーリー・スナイダー。左端が原成吉氏。(提供:原成吉氏)

――ゲーリーとななおは、お互いに尊敬し合っていましたよね。

ゲーリーとは本当に親しかったし、ゲーリーは、ななおという存在は、自分にとって小田雪窓老師(※)に次ぐ先生だって言っていた。スナイダーは、アメリカ西海岸のカウンターカルチャーの中心的な人だった。ギンズバーグもそうですね。カウンターカルチャーというのがサンフランシスコを中心に出てきたときに、スナイダー、ギンズバーグ、それからマイケル・マックルーアとかティモシー・リアリー、アラン・ワッツとかが、ヒッピーたちの思想的な部分の方向を示唆していた。何が間違っているのか、いまどこに目を向けなくてはいけないのかっていう、そういうことを示していた。ななおも日本で新しい世界をどういうふうにしたら作れるかということを考えていた。
彼は、太平洋戦争当時、鹿児島の出水海軍航空隊でレーダー解析の任務に就いてたのね。生前、よく話していたけれど、長崎に原爆を投下するB-29がレーダーのスクリーンを通っていくのを自分は見たんだって。そこから、ななおの生き方というのがずいぶん変わったと思う。

※小田雪窓老師: 臨済宗の僧。大徳寺506世。1955年11代管長に就任。1966年65歳で没する。

詩というもの「それは屁みていなもんだよ」

腹いっぱいの落石(BELLYFULLS)

――ななおは、詩・文学関係のメディアでもほとんど取り上げられてこなかったですよね。詩人と呼ばれている人たちでも、ななお さかきを知らない人は結構いるようです。

いや、そうでもないよ。谷川俊太郎さんや吉増剛造さん、白石かずこさんとかと一緒にニューヨークに呼ばれて、そこでポエトリー・リーディングをしたりしているからね。ただ、いわゆる日本の詩壇とは全然交流はなかったし、しない人だった。

――ななおの詩でもっとも古いと思われる「腹いっぱいの落石(BELLYFULLS)」(1955-1964)は、シュルレアリスム風の作品群で、詩的技術において当時かなり高度なレベルに達していたと思います。晩年、読み直したい詩人は、ライナー・マリア・リルケぐらいだな、とも言っていましたね。

ぼくも今回、1950年代に書かれた作品からずっと集めているけど、初期の頃の詩は、いわゆるみんなが知ってるななおの作品よりも、実験的で難解というものがある。だから、どんどん、そういうのが抜け落ちていったんじゃないかな。

原成吉氏

そう言えば、面白いこと言ってましたよ。ななおにとって詩というのはどういうものなんだろうね、っていう話になったとき、「それは屁みていなもんだよ。つまり自然に出てくるんだ。無理に出そうと思ってもだめなんだ」って(笑)。半分ジョークみたいなものだと思うかもしれないけれど、彼にとっての詩っていうのはそういうものだった。ただし、書きっぱなしっていうものではなくて、自分の書いた作品をものすごく推敲(すいこう)しています。だから、彼が朗読用に持っていた『犬も歩けば』には、ずいぶん手が入っている。今回、ぼくが編纂した詩集には、彼が推敲したものを入れました。

それと、ななおの声を聞いてもらえば分かるんだけど、独特のななお節というのがあるんですよ。ななおというのは、「声の詩人」って言っていいと思う。つまり、口承文学っていう、ものすごく昔からある詩の伝統ですね、それをずっと持っていた人。自分の声を通して直接読者に伝える。その意味では、ココペリそのものです。

歩き、そして種を蒔いていく

――ココペリは、詩集のタイトルともなっているアメリカ先住民族の精霊ですね。

ココペリ

ななおが描いたココペリ

アメリカ南西部の先住民の精霊のひとつと言えるでしょう。ななおは1970年代にこのあたりの砂漠に住んでいました。ユタ、コロラド、アリゾナ、ニューメキシコが十字に接する「フォー・コーナーズ」と呼ばれる地域があります。その近くに「キャニオン・デ・シェイ」というところがある。ナバホ・ネーションの土地です。その岩壁にペトログリフ(岩面印刻画)が描かれていて、そこにココペリがある。せむしで、触角のある昆虫なんですね。(詩集『ココペリ』の表紙を見せてくれる)これはななお自身が描いたココペリですが、じつは背中のこぶはバックパックで、中には種が入っている。ココペリは歩き、そしてその種を蒔(ま)いていく。その中には歌の種が入っていると考えることもできる。手にしているのは笛です。まさに、ななおにぴったりのイメージです。スナイダーもココペリのイメージを自分の作品に使っています。

――そうですね。いろんなところを歩き、旅して、ななおは行く先々で種を落としていった。それがちゃんと芽を出していますものね。

原成吉氏

旅人でもあるわけだよね。ぼくがななおと最初に会ったのは、いつだろうな・・・。70年代ぐらいから、もう伝説的な存在で、会うといってもどこにいるか分からない人でしょ(笑)。だいたい、誰かのところに居候しているか、世界中飛び回っているっていう感じだったからね。たしか80年代の初めだったと思うんだよね。ぼくの恩師である金関寿夫(かなせき・ひさお)は、ゲーリー・スナイダーが日本に来たときいちばん最初に友人になった人なんです。ゲーリーがいちばん信頼を寄せていた方でした。金関先生は、ゲーリーを通してななおを知っていた。
30年くらい前かな・・・先生から、ななおがいま東京に来てるから会いに行こうって、誘われたんです。国分寺の『ほら貝』というロック喫茶で、はじめてななおと顔を合わせたわけです。それから、ちょくちょく会うようになって、うちにも何度も遊びに来てくれました。大学のほうにも来てくれて、あの風貌に、あの風采だから、学生たちがびっくりして(笑)。でも、みんな、ななおの詩の朗読にはかなり惹きつけられていましたよ。

あと、アメリカ人のビート文学の研究者(アン・チャーターズ)が、日本に来たときに是非ともななおに会いたいっていうので、インタビューのセッティングもしましたね。

プリミティブな文化への強い関心

――『ほら貝』で、ななおとはじめて出会ったときの印象はどうでしたか?

原成吉氏

彼が、スナイダーと一緒にオーストラリアのアボリジニの文化局か何かに招待されて彼らの聖地を訪れ、ちょうど帰ってきたばかりだった。だから、アボリジニの話をずいぶん聞かされました。ななおは本当にプリミティブな文化っていうものに対して、ものすごい関心を持っていた。その方面は、ほんとによく知っていたね。アメリカやカナダのの先住民族にしても。もちろんアイヌ民族についても。

アイヌで一つ思い出したけど、萱野 茂(かやの・しげる)さんっていう人がいたでしょう。もう亡くなりましたけれど。国会議員にもなった方です。アイヌの人なんですよ。萱野さんが『アイヌの民具』という本を出版されて、図版がいっぱい載っている大判本なんですが、それを、あるときななおがぼくのところに持ってきたんですね。誰かぼくの教え子で、これを英語に翻訳する人はいないかって。そのとき、大学院に行っていた教え子に話したら、是非やりたいということになりました。もう翻訳は終わって、そろそろアメリカの出版社から刊行されるはずですよ。そんなふうに、ななおはいろんなものを持ってきて、それこそココペリじゃないけども種を蒔いていましたね。もちろん、芽が出なかった種もたくさんあったけど(笑)。ななおは、そういうネットワークづくりの天才だった。

――ほかにもそうした種を蒔いていく話はありますか?

オローニの日

ななおが持ち帰ったことによって、それが日本の人たちに広がっていく、そういうケースを思い出しました。カリフォルニアのバークレーで出版社(ヘイディ・ブックス)の社長をしているマルコム・マーゴリンという人がいて、彼がオローニというサンフランシスコのベイエリアで暮らしていた先住民族のことを自ら書き出版しました。マルコムはななおとは古い友人で、ななおのファンでもあるんです。ななおは、この本を走り読みして、その内容に強く惹かれて、これは日本でぜひとも翻訳を出したいと動くわけです。その甲斐あって、『オローニの日々―サンフランシスコ先住民のくらしと足跡』(※)が出版されました。

※原雅子(はら・まさこ)氏とスタジオ・リーフの共同企画。マルコム・マーゴリン著 富岡多恵子訳 スタジオ・リーフ刊。(原題The Ohlone Way: Indian life in the San Francisco-Monterey Bay Area)

太平洋に自分の骨を撒いてほしい

――ななおが亡くなったとき、朝日新聞に訃報がちょっと出たくらいだったじゃないですか。アメリカではどんな反応がありましたか?

原成吉氏

バークレーで去年(2009年)の3月だったかな、亡くなって3ヵ月後くらいだね。ななおとかつて諏訪之瀬(すわのせ)島のコミューンで一緒に生活していたメイ(小暮五月)さんという人が、ななおを送る会を行っています。そのポスターをこの間、アメリカへ行ったときに見せてもらいました。それと、ななおの遺灰をぼくがゲーリー・スナイダーのところに持って行ったんです。これはななおの遺言で、ゲーリーの暮らすシエラネバダのキットキットディジーと太平洋に自分の骨を撒(ま)いてほしいというのがあったからです。キットキットディジーは、南ユバ川の源流の近くです。そこから遺灰を撒くと、南ユバ川からユバ川へ、ユバ川からサクラメント川に流れ、サンフランシスコ湾に、そして太平洋に行く。ゲーリーは、ななおを知っている仲間たちを集めてそれをやると言っていました。

――ちょうどいま、内田ボブさんもななおの遺骨をもってミクロネシアへ行っていますね。私が大鹿村のボブさんの家へ伺ったとき、最後に残っていたななおの骨片を砕いた直後だということで、その骨をミクロネシアの海に撒くのだ言っていました。

この間、ぼくのところにもボブから電話があって、ミクロネシアの旅は1ヵ月半くらいかかるかも知れないって話していたね。

インタビュー後編へ続く


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